10世紀以前 | ビルマでは10世紀以前にいくつかの民族文化が栄えていたことがうかがえるが、ビルマ民族の存在を示す証拠は現在のところ見つかっていない。 遺跡からビルマ民族の存在が確実視されるのはパガン王朝(11世紀 - 13世紀)以降である。 |
1044年 | パガン王朝が成立。 |
1057年 | アノーヤター王が、モン族の都タトンを攻略。 |
1287年 | モンゴル軍が侵攻。パガン王朝は事実上壊滅。 |
1550年 | タウングー王朝成立。 |
1775年 | アラウンパヤー王が、全国統一によりコンバウン王朝が成立。 |
1824年 | 第一次英緬戦争 |
1852年 | 第二次英緬戦争 |
1885年 | 第三次英緬戦争、ビルマ王国が滅亡、イギリス植民地となる。 |
1942年 | 日本軍侵攻開始。アウン・サン率いる30人の志士達を中心とした『ビルマ独立義勇軍』がビルマに日本軍とともに侵攻。 |
1945年 | 抗日運動が起こり、連合軍がラングーン占領、日本軍の降伏。再びイギリス領になる。 |
1947年 | アウン・サン将軍暗殺 |
1948年 | ビルマ連邦として独立し、初代首相はウー・ヌ。しかしながら、少数民族や共産党の反乱が起き、内乱が続く。 |
1962年 | 軍総司令官ネ・ウィンはクーデターによって政権を握りビルマ式社会主義政策をスタートさせた。 |
1974年 | ビルマ連邦社会主義共和国発足。大統領はネ・ウィン |
1988年 | 学生を中心に反政府デモが始まり、ネ・ウィン議長は辞任。しかし、民主化要求運動はおさまらず、デモと暴動が全国内に広がった。国軍が武力で掌握し、『国家法秩序回復評議会(SLORC)』を設置した。 アウン・サン・スー・チーを書記長に『国民民主連盟(NLD)』が結成される。 |
1989年 | 日本政府は、SLORC政権を承認。国名の英語読みをミャンマー、首都名をヤンゴンに変更。 NLD書記長のアウン・サン・スー・チー女史が自宅軟禁に。 |
1990年 | 総選挙を実施。NLDが圧勝したにもかかわらずSLORCは政権委譲を拒否。 |
1992年 | SLORC議長が、ソー・マウンからタンシュエに交代する。 |
1995年 | アウン・サン・スー・チー女史の自宅軟禁解除。 |
1996年 | Visit Myanmar Year1996。1996年ミャンマー観光年が始まる。 |
1997年 | ASEANに加盟。11月にはSLORCが解散。『国家平和発展評議会(SPDC)』を設立。 |
2004年10月 | キン・ニュン首相が更迭され、ソー・ウインSPDC第一書記が首相に就任。 |
2005年11月 | 政府機関がヤンゴンから中部ピンマナ近郊に建設中の行政首都への移転を開始 |
2006年10月10日 | 正式に行政首都ネーピードー(「王の住む土地」という意味)への遷都を公表した。 |
2007年9月 | 全国的な僧侶のデモが発生。治安当局による制圧で、邦人1名を含む多数の死傷者が発生。 |
2008年5月2日 | サイクロン・ナルギスがミャンマー南西部を直撃。死者約8万5千名、行方不明者約5万4千名。 |
2010年11月7日 | 20年ぶりの総選挙が行われる。 |
2010年11月13日 | アウン・サン・スー・チー女史、自宅軟禁解除。 |
2011年1月31日 | ネピドーで総選挙後初の連邦議会が開幕し、複数政党制による議会としては49年ぶりの開催となった。 |
2011年3月30日 | 新政府が発足し、国家平和開発評議会(SPDC)から政権が委譲された。 |
2012年4月1日 | ミャンマー連邦議会補欠選挙が実施された。NLDはアウンサンスーチーを含む44人の候補者を擁立し、同氏含む40人が当選するという大勝を飾った。 |
2015年11月8日 | 総選挙でNLDが単独過半数の議席を獲得した。 |
2016年3月30日 | NLD党員のティン・チョウ氏を大統領とする新政権が発足。アウン・サン・スー・チー氏は国家最高顧問、外務大臣及び大統領府付大臣に就任。 |
「ミャンマー」 (2011年12月9日18:00 UTCの版) 『ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典』 より引用 |
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